小笠原諸島地名事典 ハートロックは洋名か



f:id:MuninBoninOgasawara:20200620202745j:plain

写真1:千尋岩(ハートロック)

月間小笠原諸島219(06-'20) 

   Monthly Bonin Islands  Place Names

小笠原諸島地名事典>父島列島

 

日本地名研究所編集・監修『地名と風土』14号 

 ハートロックは洋名か(詳細版)
                                                                延島冬生
               
 幕末に「人跡の有り難き處」(『小笠原島風土略記』*)とされた場所は観光客でにぎわっている。世界自然遺産に登録された小笠原諸島父島のパワースポット・ハートロックと呼ばれている。小笠原には洋名*2が多いことからこの地名も日本による命名以前からあると勘違いする人もいる。
 ここは父島南端の海に面した高さ200m以上の断崖絶壁で幕末文久年間(1861~2年)、幕府巡検隊が南海上から見て千尋岩[ちひろいわ]と命名した(写真2)。洋名はなかった。父島北岸の断崖はHigh Cliff(和名タカママ)*3という名がありここにもありそうだが、付近に付けた地名*4でたりたようで、必要としない場所に地名は生まれない。本土からの開拓住民は発音のしにくさ、頭の文字を「せん」と読むことから「せんじんいわ」と呼んでいた*5。二見港奥の洋名Ten Fathom Holeを訳した十尋淵という地名を「とひろ」と言わず「じゅうじんぶち」と呼んでいることからもうなづける*6。戦前父島に赴任した役人・教師ら一部知識人は元の読みを理解していたと思われる。屋久島の「千尋[せんひろ]の滝」も同様に命名者の意図とは異なる言い方ではないか。
 ハートロックは、小笠原諸島返還後(1968年~)生まれた新地名である。幕府巡検隊の絵図(写真2)には赤色の縞が描かれており、以後返還後までも小笠原特有の赤色土壌流出は続いていたが、壁面全体を覆うものではなかった。1980年代から土砂崩れを起こす豪雨が頻発し次第に赤茶色のハート型が鮮明になり海上からよく見え(写真1)、この名がついたと思われる。
 地名の発生は分からない場合が多いが、これはほぼ特定できそうである。返還前から
カノウ(小笠原カヌーの方言*7)で沿海漁業漁をしていた先住移民*8の子孫の方で返還後は観光客も乗せ、釣りや案内も行い沿海沿岸を行き来し千尋岩の壁面がハート型に赤く彩られる経緯をよく見ていたようである。ハートいわ、ロックハート、ビックハート、ハートロックと複数の言い方がされたようであるが、ハートロック Heart Rock に収斂して定着した。
 ハートロックは古くからある洋名ではなく、小笠原諸島特有な赤色土壌流出を含む短
期間の地形変化を示すもので、小笠原諸島返還後に生まれた意味ある新地名である。

f:id:MuninBoninOgasawara:20200620211519j:plain

写真2:小花作助(1862?~1874?)千尋岩 小笠原島図絵附録一巻

* 坂田諸達編(1874)小笠原島風土略記 小笠原島記事18 東京都公文書館
*2 西洋、太平洋諸島、先住移民による命名
*3 延島冬生(1999)小笠原諸島・父島における先住移民関係の地名(2) 太平洋学会誌          No.82/83
*4 Mulberry Bay(円縁湾)、Tenoura Point(天之浦の鼻)、Long Island(南島)など *3参照
*5 延島冬生(2000)小笠原諸島の山々>父島の山々>千尋
    http://bonin-islands.world.coocan.jp/yama-chichi.htm
*6 延島冬生(1998)小笠原諸島・父島における先住移民関係の地名(1) 太平洋学会誌                    No.80/81
*7 ダニエル・ロング、橋本直幸編(2005)小笠原ことば辞典
*8 本土からの開拓住民以前に無人島であった小笠原に定住を始めた西洋及太平洋諸島民
写真1:千尋岩(ハートロック)小笠原村観光局提供
写真2:小花作助(1862?~1874?)千尋岩 小笠原島図絵附録一巻
      小笠原村教育委員会